それで君の声はどこにあるんだ? (岩波書店)
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仕事そこそこの日は技術書読むけどがっつり残業した日はやっぱり無理だから中和剤用のエッセイ(書籍)として読み始めた マヨネーズ食べ過ぎてキツいみたいな
台湾で神学の修士を取った著者が博士課程を取るためにアメリカに渡り、黒人神学の泰斗に師事したときのエッセイ
まず神学というジャンルの中で「~(ある苦境に立たされた人々のためのキリスト教)神学」みたいなものあるの知らなかった
クィア神学、アジア神学などもある
奴隷制以来400年の差別に曝されてきた黒人の生き方を肯定するための神学
理論化、普遍化、体系化の神学メインストリームに対し異端
だいぶ裏口でキリスト教入った感じがするので後に困るかもしれん 今苦難を生きている人々の勇気にキリストの福音を見出すのはむしろ仏教読んでる私には親しみやすいかもしれない
つか著者がだいぶ行動力の塊でビビる
滋賀生まれ沖縄育ち、大学時代京都にいて24歳妻と一緒に台湾へ神学修士を取りに行き、そこで会話に上がった人物に教えてもらおうと27歳でアメリカに博士課程取る気満々で来たら、来た直後に荷物持ってかれて着の身着のままになるわ、実は書類時点で落ちてたことが発覚するわ、自分だったら嫌になってそうだけど楽観的ですごい
なおその場で粘ったら留学生プログラムの枠に回してもらえて滑り込むことに成功、いつの間にか学費免除になってる
博士課程ではなくなったようだが、元々コーンに学びに来たのが主目的なのでたくましい
文学やエッセイはガンガン引用したい
scrapboxに残せば書籍にインデックスが貼れる
問題の大半はキング自身にというより、彼の記憶のされ方にあったことは、誰もが重々承知していた。とはいえ、黒人と白人が兄弟として肩を寄せあう「私たち」という壮大で、普遍的な単位の創造を目ざしたキングの言葉と生涯には、矮小化や無害化の余地が残されていたから、あの教室の私たちは、キングを絶対に美化しまいと、半ば意固地になって、彼の不徹底を見つけてはそれを批判するようなところがあったのだ。
pp.34
もうひとつの世界を想像すること
でも廃絶って言ったって、本当に可能なんだろうか。理想論を語るのはいいけれど......。
それはわからない。でもビジョンをみせないといけない。闘いは、既存の構造を揺さぶって、もうひとつの世界が可能だってことを体現するためにあるんだから。それが神学の役割でもあるはず。
pp.86
ユニオン神学校で起きた学生運動時の会話
ベビー・サッグス・ホーリィも、ヤズミンも、人間は皆等しく罪人であるとか、イエスは十字架を通して罪を許されるかとか、そんなことは言わなかった。天国に救いがあるとも、この苦しみには意味があるとも、私たちは神の聖なる民であるとも。代わりに彼女たちは、今という時に、もうひとつの世界を想像することを求めたのだった。そんな想像力こそが神の恵みであると。
pp.98
本書はこういうキリスト教の神秘的側面を無化する記述が多い
現代宗教の有り様として納得できる
神秘的な救済はもう頑張れなくなってしまった人に対する麻酔だと私は考えている
警察の暴力の生き残りである黒人は、リンチの生き残りでもあり、奴隷制の生き残りでもある。そうやって生き残りとしての自己を掴み取ることで生きのびながら、私が出会った黒人たちは、先に死んでいった者たちとの関係を築き、築き直した。
(...)そして、ことキリスト者にとって、生き残ることの叶わなかった人びとと生き残った人びとが、細やかな織物のように編み込む系図は、そのまま、白人キリスト教が押し付けたキリストを飛び越えて、二〇〇〇年前のイエスにまで悠々と遡っていく。そうやって過去との特異な関係を取り結ぶという終わりのない行為を、信仰と呼ぶのではないか。
もしこの世俗の世界にあって私たちが死者に寄り添う方法を歴史と呼ぶなら、信仰とはもうひとつの、死者とともにいるための方法であろう。光り輝く救い主ではなく、帝国の暴力によって、無名の一人として十字架に付けられた評判の悪いヘブライ人の犯罪者。栄光の冠を被る王ではなく、当時、最も残酷な処刑方法のひとつだった十字架で殺された、ガリラヤの焼け付く太陽で真っ黒になったイエス。
十字架後の土曜日の暗闇にあって、イエスとは生き残ることのできなかった一人であるが、(...)生き残った人びとにとってかけがえのない存在となるのだ。 pp.110-111
黒人神学における信仰の本質は前述のような神秘的救済ではなく、死者の解釈に根拠を持つことではないか
散り散りになった断片を記憶し、どれだけ言葉が尽くされようとも語られていない呻きに耳を澄まし、不均等な政治構造の中で曲解されてしまう言葉を翻訳する、そんなほとんど不可能な行為にこそ、日本人とされた私が願い、自分に課した埋葬の行為だった。
pp.115
そして彼らの埋葬が、その言葉のもつ静かで沈痛なイメージとは裏腹に、なんと賑やかで、怒りと歌に、生の喜びに溢れた笑いに、何より光に満ちた祭宴であったことか。私は、埋葬という行為が、生き残ることのできなかった死者に静かに蓋をして別れを告げることではなく、死という悲痛を単純に乗り越えることでもなく、死者の生に確かに存在していたはずの可能性を拾い集め、引き受け、押し開いていくことなのだと学んだ。
pp.116
葬式は生きている人のためのものとはよく言うが、それは故人を悼み、悲しさを乗り越えるだけに留まらない
自分の声を見つけることについて
スタイル、声とは、自分を追い、自分を待つ歴史との絶え間ない対話から生まれる。それは自分の声でありながら、自分の所有物ではあり得ず、常に関係性の中に存在する。そこにあって真摯に問わねばならないのは、自分は何の後を生きているのか、ということだろう。
pp.128
彼に選択肢など存在しなかった。むしろ黒人の歴史という十字架がコーンを選んだのであって、彼はその負わざる得ない歴史を、自らが負うものとして引き受けていったのだ。キリスト教ではそれを召命というが(...)もっと平易に言えば、呼びかけに応えることであろう。 私が彼を尊敬するのは、彼の神学や思想にも増して、この引き受ける態度とでも言うべきもののゆえである。(...)先にいなくなった者たちの残余の声を拾い集め、彼らの余生に一歩踏み入ること。そんな困難な過程を経て、決して自分だけのものでない自分の声に出会うこと、つまり、自分という存在を掴み取ること。 pp.128-129
この呼びかけへの応答に関する言及は作中に何度も登場する
キング、ヤズミンの説教時に祈る神学校卒業生の黒人牧師、そしてコーン
やや解釈が入るが
「先にいなくなった者たちの残余の声」とは、勿論神学者たちにとっては受難の死者たちのことであるが、私のような非キリスト教信仰者が教訓とするなら歴史だと言い換えていいだろう
前の引用によれば「死者に寄り添う方法を歴史と呼ぶなら」とあるため
「彼らの余生」とは、前に引用した「死者の生に確かに存在していたはずの可能性」の言い換えと思われる
自分の声を見つけなさいというコーンの言葉に、私は問われるような思いがした。自分がつながっている歴史とはなんだろうか。コーンが負っていたアメリカにおける黒人の歴史は、少なくとも一義的には私のものではない。黒人の歴史は、ただ知識として学ぶだけなら、石川逸子が「風」で詠う「遠くのできごと」であり、それについて「うつくしく怒る」ことはできても、私の声とはならない。 pp.129
現在、著者は神学校を修了後、ノースカロライナ大学の人類学専攻で自身が育った沖縄県伊江島の土地闘争について研究している
人間は過去を都合よく解釈する側面があるだろうとはいえ、よく修士まで積み上げたものを手放したなと思う
こういう決断ができる人と比べると、私はすぐにリスクを見て動けなくなるたちなんだなと...
後半は著者の熱量と言うか、切迫した感情が文章に込められてきて半ば圧倒されながら読んだ
苦海浄土のときも思ったが、社会的な活動の当事者、あるいは傍で寄り添っている人の文章には切迫感から来る他にない迫力がある とはいえ苦海浄土は分厚すぎて途中で止まっているからそのうち再開したい こういう迫力がある文章を読むと思わず自分のことを省みてしまう
もちろんぬるま湯みたいな文章よりは何百倍もいい
本書の著者はコーン氏が亡くなる前に書かれた自叙伝を翻訳している
読んでみたい
生きがいについても終盤宗教的な感性があらわれてくるんだけど、核心は近いなと思った 「生きがい~」読んだ時点ではわからなくて判断を保留していたけど、「それで~」を読んで共通点がわかってきた
不条理な苦しみが所与であるときに、人は自分の態度を決めるための根拠が必要なのかもしれない
神秘的な力による救済にそれを求める
今受難している他の人びと、またはその受難による死者の解釈にそれを求める
これが黒人進学や、「生きがい~」にて登場した宗教的感性に近しいと感じる
哲学では思弁、論理などによって構築した世界観にそれを求める 近代以前の哲学者だとここに信仰が混じっていることもある
コーンがたくさん読み、たくさん書け、自分の経験と向き合え、自分の声を探せと言うのが印象的だった
諦めたくなることも多いが、きっと誰かの生存と幸せが他の誰かの犠牲を前提としない、もうひとつの現実が可能なはずだ。キング牧師が公民権運動時代に残した少々大仰な言葉を借りれば、「世界の救済は、不順応にかかっている」のだから。